「日本国債」幸田真音著の感想

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日本国債を発行する財務省と、それを引き受ける金融機関のディーラーたちとのドラマ。

単行本が出版されたのは2000年だ。
当時はバブルの後処理で金融危機の名残があり、また日本の財政に対する不信感があった。

そこで税収の不足を賄う日本国債は注目度が高く、本作は世界の政財界から非常に注目された。

日本財政は歳出に対して税収が圧倒的に不足している以上、歳入は国債に頼らざるを得ない。
そこで、未達を防ぐために(安定的に国債を全て購入してもらうために)財務省が毎年発行する国債を決まった金融機関が購入する、という構造が定着した。

国債の購入は、00年代半ばまではシンジケート団が引受けていた。
このやり方の場合、金融機関は一定価格で購入する。

それが今はプライマリーディーラー制に変わっている。
購入価格に幅を持たせ、より市場の意向を反映した入札方式にするためだ。

本作の主張のひとつは、安定的に国債を消化するために定着した、財務省と金融機関との予定調和の在り方に対する疑問だ。
金融当局と金融機関との関係の特殊さは、1990年代の金融危機で多く明らかになったところだ。

小説の中で描かれていたのは、国債の価格ひとつとっても、金融機関は自由に意見を言う訳でもなく、いつも財務省の発行する国債をただルーティーンとして引き受けるだけで、それに葛藤を感じる主力ディーラーたちの姿だった。

引受によって日本の財政に貢献していると言えるかもしれないが、仕事の自由度は全く無い。
建設的な議論すら生まれないという状況は、予定調和の極みだ。

そこで、男たちが現状を打破すべく一矢報いる計画を立てるというものである。

著者は、あとがきで当時の金融機関や政治の在り方を指摘した上で、こう綴る。

そんな厳しい現実のなかでも、この国が直面している危機から目をそらさず、その現状と将来を強く憂える人は確実にいた。
(中略)現場にいるからこそ見えてくる非条理のなかで、それでもこなさなければならない義務との葛藤。
(中略)二年あまりの歳月をかけて、この作品のために私が出会った数え切れない人々のなかにも、そういう人たちのなんと多かったことか。

今年6月、三菱UFJ銀行がプライマリーディーラーの資格を返上すると表明した。
以前なら考えられなかったことだ。
今は、少なくともモノを言える自由度は増しているようだ。

日本国債は暴落どころか、市場不安の中で安全資産として価格が上がり利回りがマイナスを推移している。

時代は本作が世に出てから15年過ぎている。
変わるべくして変わったこと、変わるべきなのに変わらないことがある。
予定調和を動かすのは、憂える人たちの起こす事件だ。

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